東北再訪4 大川小学校

| コメント(0) | トラックバック(0)

東北再訪旅行の最後は、多くの児童と教職員が逃げ遅れて津波の犠牲となった、石巻市の大川小学校跡を訪れた。P1000323_crop.JPG

なぜあのような悲劇が防げなかったのか、少しでもヒントになる事実を観察したいと思った。

P1000335.JPG
校舎は壊れたまま放置されている。コンクリートの壁が破壊されている。どのような衝撃がかかったのだろうか。


IMG_0491.JPG
大川小学校の裏山。ここに逃げておけば……と指摘されているあの裏山だ。小学校の敷地のすぐ裏に隣接しており、その箇所は杉が植林されている。コンクリートの壁になっている部分もあるが、裏庭からそれほど遠くないところに、写真のとおり緩やかな傾斜が林の中に続いている箇所があった。子供の足でも40分もあればそれなりに遠くまでたどり着けただろうと思われる。それでも、余震の続く状況では、がけ崩れなどに巻き込まれる状況のほうが津波などよりはよほどリアリティが感じられたのであろう。マニュアルや緊急時の意思決定システムが確立されていれば……。

AropbKZCMAAk6mG.jpg
小学校の周辺地域の様子は衝撃的である。南三陸町などもひどい有様ではなるが、なんとか仮設店舗で営業している人たちがいて、道路工事や片付けなど、とにかく復興に向けてのアクティビティは感じることができた。だが、ここは、とにかく小学校とケータイの中継用らしき鉄塔以外の物は何も残っていない。どこまでもどろどろの更地が広がるばかりである。時間帯が夕方だったこともあるだろうが、とにかく活動している人の姿がどこにもない。グーグルで画像検索してみると、震災前までは小学校の回りは多くの民家に囲まれ、普通の田舎の集落だったことがわかる。それが、一転してゴーストタウン以下の状況に陥ったのだ。「死の街」発言で辞任に追い込まれた大臣がいたが、なにが不謹慎な発言なものか。これはまさに「死の街」ではないか。

P1000343.JPG
最後に、校舎に隣接して設けられた祭壇の写真を掲載しておきたい。このメッセージを見ると、絆とはなんだろうということを考えずにはいられない。犠牲となった児童たちを悼んで、それを何かの形にしたいと思う人がたくさんいるのは理解できる。だが、本当に当事者のことを思いやるなら、そうした「形」を残せて満足した来訪者の後で、地元の人がどういう気持ちでそれらを始末しているのかまで想像するべきだろう。

トラックバック(0)

トラックバックURL: /564

コメントする

このブログ記事について

このページは、kojidoiが2012年5月19日 02:02に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「東北再訪3 南三陸町中心部」です。

次のブログ記事は「手書きの履歴書になんだか訳の分からない価値を見出す人」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

アーカイブ

Powered by Movable Type 5.01

2015年12月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
  • アクセス管理
    人気ブログランキング - testブログ あわせて読みたい

    アイテム

    • AropbKZCMAAk6mG.jpg
    • P1000323_crop.JPG
    • P1000343.JPG
    • P1000342.JPG
    • P1000335.JPG
    • IMG_0491.JPG
    • IMG_0487.JPG
    • IMG_0485.JPG
    • IMG_0483.JPG
    • P1000319.JPG