出生率の低下は当然。その根本の原因をじーさんたちは解っていない。
これは人生観の多様化し各個人が安定と幸福を追求したことの必然的結果だ。
をよんで考えたことを書いてみたい。
さて、子作りであるが、子供がたくさんいると云うことは社会的に良いこと、幸せなことと通常認識されている。必ずそこには経済的合理性があるはずだ。いや「あった」と過去形でいった方が良い。昨晩、テレビでオードリー・ヘップバーンが演ずる西部劇なるものをはじめて見たが、あの時代のアメリカでは明らかに子供が多いことは経済的合理性を持った。
確かに「過去形」で語るべき状況だ。少なくとも、
平成の都市部に生きる若者にとって、子作りの経済的合理性は存在しないだろう。
社会通念とか倫理は、社会の変化に遅れて、あとからついてくるものである。今の日本はちょうど過渡期にある。社会道徳の方が古いのだ。
とにかく、今までのように「道徳」だけを理由に、女性に子供を産めと言っても通用しない時代になっていると思うのである。
そして悲劇は、世のオジサンオバさんたちの少なからぬ層が、この社会の変化を全く認知していないことにある。
「子供が居る=幸せで充実した生活」との恒等式は彼らの中で絶対不変であり、1億2千万全ての日本人の全てに必ずあてはまる真理だと思っている。実は私の父もそのような人の一人であり、全く結婚のケの字も考えていない私に対してことあるごとに説教を食らわそうとしてくる。議論は常に全くの平行線であり、互いに一ミリたりとも歩み寄りはない。根底の価値観が食い違っているからだ。鬱陶しいので私はなんだかんだと理屈をつけて帰省しないようにしている。
どちらもそれぞれの価値観を確立させたオトナである。その価値観をそう簡単に外圧で変えられるものではない。森元首相や、拓殖大学のなんとかいうバカ教授はそうは思っていないようだが。昔の中国が文化大革命で実行したようにキャリア志向の若者を農村に下放でもするかね。
やることは子供をつくるという行為が投資採算に乗るように制度改革をすることだ。
私の身の回りにも現在子育て真っ最中の人は沢山居るが、託児所一つ見つけるのも至難の業だと聞く。また、散人さんもご指摘のとおり教育費は高騰している。国立大学の授業料など、ここ20年でどれだけキチガイじみた値上がりを繰り返したことか。さらにここにきて独立行政法人化し、今後どうなるのか想像するだに恐ろしい。
また、ここでいう採算とは金銭的なもののみに限らないと思う。職業人としての自己実現といったメリットも含まれるだろう。それを得るに必要な苦労に対してそれを得ることが可能かどうか? つまり、子育てと仕事を両立できるか? 会社や官庁づとめが前提となる職業では非常に厳しいだろう。特に、女性の場合出産の前後に出産以外のことがストップしてしまうことは避け様がない。やはり子供が小さいうちは母親がついていないと問題だろうし、そうなると「両立」というよりは育児休職せざるを得ない。ではせめて子育てが終わった後に現役に復帰することが容易かどうか? 雇用状況はみてのとおりの惨状だし、とくに競争や進歩の激しい業界ではたとえ復職できたとしても「第一線」に復帰するには本人の努力以外の何かが必要だ。
その「何か」を現実問題として考える動きが鈍すぎるように感じられる。さしあたり、託児所の類は大幅に増やし、保母さんや小児科医などももっと養成すべきではないだろうか(担い手は少なくないはず)。そのために使う税金なら喜んで払おうじゃないか。
もちろん現状でも諸々のハードルを越えて子育てとその他のことを両立している人が沢山居ることは確かだ。しかし、それが誰にとっても普通に可能だと決め付けるのは、そしてそれができないでいる者を努力不足・自覚不足・非道徳と決め付けるのは非現実的で誤っている。
そんな主張はそっぽを向かれて当然だ。「は? なにそれ?」で終わり。木に竹を接ぐよな道徳論や「家族の幸せ」論の押し付けは反発しか生まない。私が父に感じているように。
私など、こうなったら非婚でも充実した人生を送れることを証明して見せてやると、逆に使命感が燃え盛っている。晩婚化、dinksの増加、出生率の低下などは必然的な結果。
このままでは森さんが如何にわめこうとも出生率は今後ももっとどんどん下がり続けるだろう。特に与党で幅を利かせているおじいさん連中には一日も早く発想の転換をしてもらわなければならない。あるいは潔く他の議員に道を譲って退場するかだ。もっとも日本の人口は少し減ったほうが土地に余裕が生まれて住みやすくなると思うが。
本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-06-13)
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