みなさん、どんどん反対してみましょう。
昔書いた 百ます計算批判 に対して次のようなコメントが寄せられた。
批判だけからは何も生まれません。問題があるのなら、はっきりと指摘し改善策を提案するのが本筋ではないでしょうか。ああまたも「 対案を出せ 」論だね。 あの時私は、「反対ばかりして対案を出さんのはケシカラン」論に対して、これを一種の論点の押し付けだと批判した。
今回のゲストさんも悪気はないのであろうがやはり同じ誤謬に陥っている。すなわち、 「反対すること」それ自体が立派な意見表明 であり一定の価値があるということを忘れているのだ。
タイムリーなことに私がいま読み進めている 「 できる人の書き方 嫌われる人の悪文(樋口祐一著・ビジネス社) 」 にも以下のような同趣旨の記述を発見し、大いに意を強くしている次第だ。
それは「どんなものでも文章は、何かに反対して書かれている」ということだ。(中略) 何かに賛成していることは何かに反対していることでもあり、何かに反対していることは何かに賛成していることでもある。(中略) 意見を述べることは積極的な行為なので、「賛成」よりも「反対」という語句のほうが実態をよく表している。同じぐらいの声量で、「賛成」と「反対」を言い比べてみればわかると思う。「反対」と叫んだ方が、より強い印象を残す。デモ行進で「賛成」とシュプレヒコールをあげても、間が抜けている。何度か書いたことだが、「議論」には2種類あると思う。ひとつは何らかの意思統一を図るための議論であり、もうひとつは複数視点からの意見を比較することにより物事をより深く考察するための議論だ。前者(たとえば国会での法案審議とか)であれば「対案を出せ」なければ困るかもしれないが、後者ではそんなことはない。たとえ反対オンリーでも、それ自体の論理を明確にしていけば立派に議論に参加できるのだ。
となれば、樋口氏の教えは十分すぎるほど実際的だといえよう。すなわち、自分の意見や主張を明確にしたいなら、 とにかく人の言うことには全て反対してみる ことから始めようということだ。 われわれは、世の中の殆ど全てのことについて「素人」なのである。素人だからそのことのイロハもわからない状態にあるわけだ。最初から立派な対案を提出するなんてできるわけないではないか。まずは地味に「反対!」から始めればよいのだ。
百ます批判の件だって、私は批判しかしていないが別視点からの意見から学ぶべきものをちゃんと学んでいるぞ。
本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2005-04-10)
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