「社説」という「パブリックな」文章のあるべき姿についてJun Rajiniさんが問題提起のblogを書かれたわけだが、その中で私のblogが取り上げられ、個人が草の根的に書き連ねる主張のあり方にも話が広がってきた。せっかくだから、同エントリーのコメントを下敷きに私の見解を述べる。
http://ch.kitaguni.tv/u/1411/%ba%ee%ca%b8/0000064821.html
片方により過ぎた意見は大概「反対意見の立場を見下す」意識が見え隠れするものです。残念ながら、たとえばお話にあげられている kojidoiさんの主張には同じ空気を感じます。この手の問題ってのはおそらく客観的な正解ってのが無い場合が多いのではないでしょうか。別姓批判派の本音が結局「今までの制度を変えるのがイヤ」であるのと同様に、別姓を希望する側の本音もまた「今のままじゃイヤ」でしかないように思います。「同じ空気が感じられる」のは当然である。私が別姓選択性批判を繰り広げている人間の多くを「こいつバカだな」と思っていることは否定しようのない事実である。
そういう人を馬鹿にしていることを胸のうちにひたかくしにし、紳士的で、穏当で、当たりのやわらかい文章を私は書くべきだったのだろうか?
そういうスタンスを否定する気はない。
しかしだ。
blogは第一義的に自己表現の場であると私は考える。ゲストを交えての議論となることもあるが、この議論とは、たとえば所属する趣味のサークルや職場や自治会において来年度の行動計画を策定するといった、「どこかで合意点をみつけなければならない」議論とは性格を異にするものだ。もちろんそうなったらなったで素晴らしいことだとは思う。しかし、わたしにとっては「まず自分を表現すること」が、第一目的なのであって、議論がどうとか賛同者がどうとか、受けるか受けないか、ニュースバリューがあるかどうかなどは全て優先順位2位以下なのである。
ある種の人間たちをバカだと思い、できればいなくなって欲しいと感じている自分がいることを、私は否定するわけにはいかない。そのような自分が居ないふりをし、無難だがインパクトもない文章をアップロードして並べていくことに私は意義を見出せない。あるいはごく常識的な「合意」を(たとえば、自衛隊員は無事に帰国できるべきだみたいな)、とりつけてお互いうなずきあってみたりして、何が楽しいのかと思うわけである。
もちろん、そんな私の不遜な文章に拒絶反応を示す人も居るだろう事はわかっている。非常に悪意に取る人も出てくるであろう。インターネットに文章を書くようになって10年、まだネットニュースが正常に機能していた時代から多くの経験を私もつんで来た。だいたいの反応は予測できる。
その過程で得た教訓の一つは、どんなに誠意をもって、誤解されたり紛争のネタとなることを避ける文章を書こうとしても、誤解・曲解の得意な人は常に現れるのであり、「理解したくない人は何を言っても理解しない」ということである。 どうせそうなのだったら、自分の表現したいものを自分の書きたいように書かなければ損ではないか。私はそう思って文章を書いている。
そんな私の作品に対し、「kojidoiの文章は挑発的過ぎて時々むかつくが、視点は良い」といってくださる人も出てきた。嬉しいことである。それで充分である。
Junさんは「本文では、きっちりどこがおかしいのかを解きほぐしていこうとされています。」とおっしゃいますが、残念ながらkojidoiさんの文章は「別姓批判派を批判する立場」の人にだけ共感できる「含み」を多用しているようにも思えます。件の文章では、産経新聞の社説における「論理構築のおかしさ」を批判することに主眼を置いているわけであって、別姓選択性そのものについて主張を繰り広げることを主眼としていない。だから、<「このままじゃイヤ」以上のもの>も特に挙げていない。やってもいいけどそれでは話が拡散しすぎるのだ。
個々人の立場に関わらず、件の社説の「おかしさ」を理解できるように書いたはずであったが、それでもその部分に「含み」を感じられたというのであれば致し方ない。
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本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-04-01)
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