人材作りは「差別」なのか?

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東京新聞が教育改革への疑問を記事にしている。 この問題で、ヒトゲノムなどを持ち出すのは(少なくとも現在のところは)ナンセンスだが、毛利発言の趣旨自体はそれほどおかしいとは思えない。

東京新聞の記事 に紹介されていた毛利氏の発言の抜粋。

その差は残念ながら持って生まれた遺伝子の組み合わせの差だ。(中略)そこをどう埋めていくのかが習熟度別学習であり、もっと伸びる子を伸ばす、それから今のままではついていけない子をどう救うか、が重要だ」
これに対して差別ではないかと野次が飛んだというのだが。これの何が差別だというのか理解できない。人間には得手不得手があり、そのありようが一人一人違っているのは否定しようのない事実だ。今の教育システムでその多様性に対応しきれない部分があるなら改善すべきだという提言だろう。何が問題なのだろう。当然の主張ではないのか。

国家や企業のための「エリートの養成」なるものにも記事は警戒感を匂わせている。どうも日本においては「エリート」という言葉がいい意味で使われないことが多いようだが不思議なことだ。組織を動かすには、なんでも直接民主制で多数決で決めればいいというものではない。組織を束ねるリーダーが絶対必要だ。リーダーになる人間にはそれなりの豊富な知識やセンスが要求され、それは全ての人間に備わっているものではない。また、組織の性格によってリーダーに期待される人間像もいろいろ異なってくる。多様な高等教育システムを用意しなければならない。このようなエリート養成コースを否定することは「悪平等」を肯定することに他ならない。それは公平でも合理的でもない。

ところで、たとえばオリンピックで金メダルをとった水泳の北島選手にはいわゆるスポーツの専門家だけではなく画像解析のプロも張り付いていて、全ての泳ぎをビデオからパソコンに取り込み、詳細な検討を行なっているそうだ。一般人が街のスイミングスクールに高い金を払って入会したとしても、そのような綿密なサポートはまず受けられまい。冒頭に触れた野次を飛ばした人は、こういう状況も差別だとして否定するのだろうか? ぜひ聞いてみたい。

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本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-08-22)

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このページは、kojidoiが2004年8月22日 00:00に書いたブログ記事です。

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