国語力の不足から噛み合わない議論になってしまっていた節がある。これはもったいないことであった。
http://ch.kitaguni.tv/u/1181/%b6%b5%b0%e9/0000114464.html の続き。DoXさんが紹介してくれたブログエントリーを読んでみた。一方の視点に偏っているとはいえ、より詳細にこのタウンミーティングの様子をうかがうことが出来た。
http://peace-event.seesaa.net/article/180090.html
人材育成だの人的資源だの人間を「モノ」のように、使える/使えないで判断するおかしさ。僕はそれに非常に腹が立ったし、あまりに酷すぎると思う。人間は資源ではなく血の通った個人のはずだ。彼は少し勘違いをしている。 人材とは人を「モノ」扱いすることを意味する言葉ではない。
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%BF%CD%BA%E0&stype=0&dtype=0
だから教育が人材育成を目指すのは当然である。 「役に立つ」仕事を目指す人間にそれ相応の優遇策が用意されることはおかしなことではない。 また、勉強するからにはこれを誰かの役に立てたい、と思うことも何ら不自然なことではない。
問題にすべきは「役に立つ」の定義なのだ。彼はその曖昧さや恣意性をこそ追及すべきであった。
一方、「感謝の気持ち」を突然持ち出してきた毛利氏も確かにちょっとおかしい。これは論点のすりかえと捉えられても仕方がないだろう。
http://peace-event.seesaa.net/article/180090.html
「自分のためですか?今勉強ができるのは、親のお陰だったり、国の税金が使われている大学だったりする訳でしょう?その感謝の気持ちとかは無いんですか??」
感謝の気持ちは確かに、ある。しかし、それとそれに報いる勉強とは別問題だ。僕は一度も親のために勉強した事も、先生のために勉強した事も、ましてや国家のために勉強した事も無い。これじゃー自己責任論と同じだろーが!!税金の札束で顔を叩かれ『黙って言う事を聞け!』というメンタリティが見え隠れしている。人間の存在と同じで『今の社会』で『役に立つ』勉強だけが勉強ではないはずだし、確かにここで紹介されているパネラーの発言は(このブログを書いた人の目を通してのサマリーだから、ある程度割り引いて読まねばならないとしても)、相当にヘンではあるが、彼らも彼らなりにバカではなく、色々な目くらましをかまして自分の意見の妥当性を演出しようとしているのだ。
常套手段の一つに、本当の論点とは少しずれていて、しかも面と向かっては否定しにくいものを衝立に仕立てるというのがある。自分でも薄々気付いている自分の主張のおかしさを隠し、議論から逃げようというわけなのだ。
衝立戦法の例:
ツッコミ「今の中学校の校則には無意味なものが多すぎるのではないか?」 |
ボケ「ルールを守るのは社会人として当然だ」 |
ツッコミ「イラク派兵の妥当性には大いに疑問がある」 |
ボケ「君はテロを肯定するのか?」 |
こういう欺瞞をきちんと見分け、「それは本題とは関係ない!」と間髪いれず怒鳴り返せるようになることが必要であろう。
本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-08-23)
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