http://wwwsoc.nii.ac.jp/pssj/program/program_data/36ws/inagaki_paper.pdf
ここで、近年の批判的実在論の発展に触れておきたい。それらの特徴は、自然認識と社会認識における階層構造に、深い注意を払っていることである。たとえばジョン・サールは、実在の世界が主として二つのカテゴリーに分けられるとしている。第一に、人間の思惟から独立した「物理的事実」(brute facts)で、たとえば「私が知覚するしないにかかわらず、エベレスト山の頂上には雪と氷がある」というものだ。第二に、さまざまな程度の人間の志向性やルールに依存した「社会的事実」(social facts)で、たとえば「ジョン・サールはアメリカ合衆国の市民である」というようなもの。この場合「社会的事実は物理的事実の上に上張り(overlay)されている」4。つまり、アメリカ大陸という地理的・物理的場所の上に、法や社会制度としてのアメリカ合衆国があるからである。http://bunmei.hus.osaka-u.ac.jp/j/kimura/Luhmann's-Semantik.htm
カッシーラーは歴史的事実と物理的事実を対比しつつ、歴史の特徴を描き出そうとする。物理的事実は、「観察」と「実験」によって規定されるが、歴史的事実は過去の出来事であり、経験することができない。http://psywww.human.metro-u.ac.jp/sakusi/letter/letter.htm
錯覚という言葉は、元来、「正しさ」と「誤り」というものを前提している。しかし、この二つの概念はかなり人為的なもので、本当は、錯覚を単なるフレームワーク同士の衝突とか、「歪み」みたいなものとしてとらえるべきだと思う。 「錯視」における正しさの基準は、科学的事実とか、物理的事実と言われているものかもしれない。しかし、科学理論や、物理学が、我々の経験を通して、しかも、我々の言語を用いて構成されたものであることを忘れてはいけない。 「本当は、同じ長さなのに、違う長さに見える」という錯視現象において用いられる言明は、同じという言葉の背後にある我々の日常的、古典的なメジャーに依存しているけれど、例えば、相対論的な距離というのは、ユークリッド空間における距離とは違うスカラーという規約に基づいているので、相対論を持ち出した途端に、長さに関する「同じ」という言葉の有効性が俄かに怪しくなってくる。 正しさの本当の基準とは何だろうか。 これは難問だ。物理的事実と「非物理的事実」を対比して何らかの定義を明示しようとしている文章を拾い集めてみた。
「非物理的事実」に相当する用語が3つ出てきた。探せばもっと出てくるかもしれない。むしろ、こっちの定義の方を先に考えてみたほうが実りある結果が得られるのかもしれない。
さて、あの人のいう物理的事実は何なのだろうね?
本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-09-02)
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