ようやく時間ができたので、 「ニュートラルな人」ネタにいただいたトラックバックをもとに続きを書く。
そもそも、ニュートラルは罪なのか?
うーん、まぁそういう人たちとの対話は徒労に終わるというのは分かるんだけど、でも僕は「まだニュートラルな人」に期待を掛けようとも思わないんですよね・・・少なくとも「脳に思考させるためのエネルギー」を持っているだけマシじゃないか、というのがrir6氏の主張だと私は読み取った。だとしたら私もその主張自体には反対するものではない。だが、ニュートラル=考えることさえしようとしない救い難い人々とする批判には賛同できない。何故ならニュートラルっていうのは英語で言えば体が良いですが、要するに無関心でしょう?義務教育もまだ終えていない子供じゃない限り、生まれてから今までのその人の人生の中で一度は公民の授業やらテレビのニュースやらで、南京大虐殺やら遺伝子組み換えやらそういうことに触れるチャンスは山程あった筈なのだ。なのに何でニュートラルでいられるのか?kojidoi氏は「原理」の例を出しているが、しかし原理のようにマスコミであまり取り上げられない*1例なら確かにそのようなこともあるかもしれませんが、南京大虐殺とかの問題は訳が違うのだ。今も中国でこの問題について真剣に怒っている人が居る。それは十分知っている筈なのに、「ニュートラル」な人たちはそれについて全然考えない。別に彼らはある一定の考え、つまり「南京大虐殺幻派」とかに入り、その考えを信じているからそのようなスタンスを取っているのではない、何故ならその様なスタンスの人は一応まず南京大虐殺という事件を知って、それが本当だとしたら自分が苦しくなると考えたからこそ、それが「幻」であると信じたがる訳だが*2、「ニュートラル」な人たちは悩みもしない、その点では、僕は「ニュートラル」な人たちは「南京大虐殺幻派」よりも私的には劣っているとすら考えます。
もう少し言うと、「そういうことに触れるチャンスは山程あった筈なのだ。」の部分に異議アリなのである。
今の世の中は忙しい。なにしろ自己責任の時代らしいし、血眼になっていろいろな情報を取り込んでおかないと、どこで足元を掬われるか分からない。その分、ひとつひとつの情報を深く吟味することはやりにくくなる。情報に接するチャンスは全体としてみればいくらでもあるのかもしれないが、「一つの事柄あたりの」チャンスを考えてみたとき、それは限りなくゼロに近いということになるのではないか。南京事件のことはあんなにたくさん報道されているじゃないかというのは、それについて既に特別な興味を持ってしまっている人の論理に過ぎない。その論理に基づいて、「ニュートラルな人」を劣っていると言い切るのは乱暴過ぎるだろう。
とにかく僕は「普通の人」、「ニュートラルな人」は大嫌いだ。そしてそういう人たちと話をするぐらいなら、例えどんなに不毛だろうが、敵対する思想の人たちと議論まがいの喧嘩をする方がよっぽどましだと思う。例えそれで自分の無力さを思い知る事になっても、それはしょうがない。何故なら自分が無力だというのは事実なのだから。「普通の人」と一緒になって「普通の人」全体の力で今の社会を支え、そして「あぁ、自分って力があるんだなぁ」という幻想に浸るよりは断然良い。彼の言う「普通の人」は恐らく私が想定する「ニュートラルな人」とは微妙に異質のものなのかもしれない。森羅万象あらゆるテーマについて他者と議論できるだけの知識と一家言をもつ人間なんてまずありえないのであり、世の中の大部分の人は、いずれかの分野に関しては必ず「ニュートラル」であると私は思う。それが「普通の人」だろう。
そして、世の中は「普通の人」で構成されている。己の無力さを知りたいなら(そして、それを今の社会をかえることに繋ぎたいのなら)自分の言葉が「普通の人」に届くかどうかを測らずにどうするというのか。それを拒否するのは、結局のところ「自分は少数の選ばれたエリート」なのだという位置付けに安住したいだけではないのか?
己が少数派に属することを恐れてはいけない。その点ではrir6氏の意見には共感する。しかし、自分が少数派であること それ自体 に満足しているようではいけない。
それが行き着く先は、度し難い「普通の人蔑視」=「自分は選ばれた少数の『真理を理解した』優れた人間なのだという選民思想」であり「ひとつ俺様が愚かな民衆を導いてやろうという思い上がり」だろう。実際、そういう例は最近うちにトラックバックをよこした数名の文章中に満載だ。
私がいわゆる「議論」から少し距離をおいてみようと考えたのは、どうも議論に臨む双方が自己満足しているだけでなく、「その自己満足の増幅」をやっているのではないかという気がしてきたのだ(その意味で議論のツール、もしくはコミュニケーションのツールとしてのブログの未来には私は従前よりかなり悲観的だった)。
この点に関しては野良猫氏も見解を述べているが、上で述べたとおり、その発想は180度間違っていると思う。 http://ch.kitaguni.tv/u/6508/%b0%ec%c8%cc/%b5%c4%cf%c0/0000164490.html
「私達は正しい、正しいはずなのだ」と口にしてみても、何の解決にもならない。将棋道場で一勝も出来ない人間が素人に勝負を挑むような事をする前に、自己検証と研鑽を積み重ねて道場で勝てる道を探す方が、建設的な考え方ではないかと考えるのです。議論には将棋のような明確で統一的なルールなどない。いや、 松本道弘氏 あたりが提唱する厳密なディベートでは細かいプロトコールが整備されているが、現実にはだれもそんな理想化された議論などやっていない。
というか、こっちがいくら言っても飛車は縦横どこまでも進めるんだということを認めようとせず「うちの家族はいつも飛車は動かさないルールでやっている」と言い張っているような人相手に将棋を指そうというのが、多くのブログで展開されている「議論」だといえる。しかし、ここで将棋なんてメジャーなゲームを理解していないなんて信じられない、などと嘆いてみて何になる。
客観的に自己検証して研鑚を積みたいとか「情報発信」を実現したいとかいうときには、むしろ変に固まってしまった宗教家よりも、「普通の人」の立場を考えたほうが有効だ。思い込みがない分、真にこちらの発想の転換をせまり盲点をいぶりだす斬新な発想は、そういう人たちとの対話によってこそ生まれると思う。宗教家はダメだ。出してくる材料も語り口もステレオタイプ。擦り切れた経典のお経を唱えているだけで新規性がないから。
でなければ、私が常ひごろ標榜するように、ほんとうに「自分の記録を残す」ことに主眼を置いて「情報発信」なんて考えないというのも立派なやり方だと思っている。
いずれにせよ宗教家の出る幕はない。
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本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-12-28)
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