国情の違いを無視した現実的でない有機農法推進はやめよう

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有機農法が完全悪などというつもりは毛頭ないし、大いに研究は進めればいいと思う。だが、今声高に有機農法推進を唱える人々を見ていると、やはりある種の胡散くささを感じざるを得ない。その背景とは……。

とりあえず、参考になりそうなコンテンツを並べてみる。

まず押さえておくべきポイント。日本と欧州(有機農法の本場)にはいくつもの違いがある。
  • 耕地面積が違う。
  • 気候が違う。
  • 土壌の質が違う。
ヨーロッパでは耕地面積当たり生産できる「まともな」野菜の量は少なくてもいい。耕地面積が広いから、掛け算により全体の生産量は十分稼げる。日本でこれをやると自給は困難ということになる。日本で自給率をあげようとすればそれは集約的な農業にならざるを得ない。有機農法の支持者は、それを技術力と人力とでなんとかできると確信しているようであるが、それは全ての人が彼らの期待するところの良心に従って理想的な働きをしたときの話。現実には人間は怠け者である。だから有機農法は一部の「先進的な」人がもてはやしているだけ。そして少なからずの「有機野菜」は紛い物ということになる。

そういう現実を認めない自然崇拝主義は、社会主義/共産主義がうまくいかなかったのと同じ理由で滅びるであろう。

上に挙げた 「有機農業について考える」 では、有機農法にまつわる消費者側・生産者側双方の姿勢について問題点を指摘している。大いに参考にすべきであろう。特に声の大きい人に噛みしめて欲しい記述を引用しておく。

消費者はもっと大きな気持ちで農業を見守ることが必要に思われる。たとえ農薬や化学肥料を使って作った農産物であろうとも、自然の恵みであることに変わりはない。残留農薬の問題にしても普通に食物を摂っている限りほとんど問題はないといってよい。普通の米や野菜等(化学肥料や農薬が使われている)も美味しく食べ、しかし今後の食糧・農業のために有機栽培を支援していくという態度が求められるように思う。わがままやエゴイズムではなく、優しくおおらかな態度で接することが必要に思う。
有機農業の実践者はかつては周囲から奇異の目で見られた。中には独自の哲学を振りかざす人もいた。同じ有機農法とはいえ、人によりその内容は様々であった。家畜のふん尿を材料とした堆肥を使う、あるいは植物の茎葉を材料とする堆肥しか使わない。何か独自なものを使わなければならない、あるいは使ってはならない、独自の微生物を使わなければならない等々。しかし、化学肥料万能の農業の有様が問題とされ、将来は有機肥料をもっと有効に利用し、化学肥料の使用を抑えていく必要がある中で、余りに独自の手法等に固執するのも問題なしとはしない。やはり普遍的に、誰でもが調製・利用できるものを基本とし、独自の手法はそれを一層改善するための一手段としてとらえることはできないだろうか。そのようにしてこそ有機農業は一層裾野の広いものとなるように思われる。

本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-12-03)

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このページは、kojidoiが2004年12月 3日 00:00に書いたブログ記事です。

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