夫婦別姓反対の根底にあるものと、ライブドア騒動の根底にあるものについて、共通性を見出している人がいる。
以前にもトラックバックを交換したことがあるが、夫婦別姓問題を追及しているブログの一つに、 「夫婦別姓を待つ身の溜息」 がある。
その2月19日のエントリー、 作られる伝統とその背景 の指摘は興味深い。
日本にもいくつもの異なる「伝統」があり、西洋には西洋のやり方があり、明治以降にその異質ないくつものモノを無理やり統合して一つの「伝統」をでっち上げた。結果として、姓とか苗字とか位置付けがかなり曖昧なものになった(姓と苗字とは実は違うものなんだそうだが説明を読んでもさっぱり理解できない)。
そんなでっち上げをした背景になにがあったのか、どうして殊更に彼らが「戸籍」に拘るのか。そこが不思議だと 私も以前に書いた。 その解答がこのブログで紹介されている本からは得られそうだ。
で、自民党議員が(一部推進派を除き)夫婦別姓反対なのは容認できないまでも「理解」はできるとして、市井の民でことさらに反対を唱える奴がいるのはどうなのよ。ほんとうにもう少し知識と論理を身につけて欲しいと思う。君たちは単にお上の恣意をワケもわからず鵜呑みにしているだけなのだよ。いわゆる「プロ奴隷」ですか。
よく「伝統」として引き合いにだされる概念は、実は試行錯誤の末に昭和初期ごろに出来上がったものだそうです。特に世界大恐慌のころ、新たに「伝統」と称するもの、またはよりどころになるような何かが求められたようです。論理的には破綻がなく正当性を認めざるを得ないが心情的にはどうしても受け入れがたい主張があったとき、なにかと伝統とか精神とかに走りたがる人がいる。そうして論理よりも手前の都合を優先し、進歩の足を引っ張るのだ。「保守派」と呼ばれる人々だ(と、しれっと言い切ってしまう私)。社会がなにかよりどころを求めようとするとき、過去や歴史など、伝統を創造することがあるようです。しかし著者はそうした作りあげた伝統に身を委ねるのではなく、個人を確立させること、個人を出発点としてそれぞれが語り合うことが大事だと主張しています。だから、作るべきは伝統ではなく、確立した個人が紡ぐ公共性であると。なかなか興味深い考察です。
ライブドアの株券の問題については、私はあまりフォローしておらずよく分からないのだが、 余丁町散人さんのエントリー を読む限り、株券を買い集めること自体は法律違反でもなんでもないんだろう? でも、自民党員としては、たとえば産経新聞みたいな存在を批判したりする人間が、しかもそれなりに「力」を持って存在してるのがとにかく気に入らない。気に入らないから叩いた。精神とかいう曖昧なものを持ち出してでも。
実在するのかどうかもわからない伝統だの精神だのを引き合いに出し、それを壊すことは「和」を乱し「混乱」を生むからダメだという。ああ、美しきかな日本人。
結果として何十年も続く停滞。そんな事例が世の中にはたくさんある。それでいいのか本当に?
私は夫婦別姓問題に直接の利害を持たないが、リベラル人と保守人のバトルは今後も無数に繰り返されるであろうし、そのバトルをどうリベラルの勝利に導くかのケーススタディとして夫婦別姓議論に興味があるのである。
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- http://ch.kitaguni.tv/u/1181/%bc%d2%b2%f1/0000182064.html
- http://ch.kitaguni.tv/u/1181/%bc%d2%b2%f1/0000069281.html
- http://blog.so-net.ne.jp/jkkirin/2005-02-12
本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2005-02-21)
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