思いつくまま脈略なく書いてみる。
!2 昨年までの卒業生は放置で良いのか?
この問題が今年度に突然発生したはずはない。何人も前から常態化していたはずだ。ということは現在は大学生や社会人になっている者の少なからずが不適切なカリキュラムの下に高校を「卒業」したはずである。
彼らは放置で良いのか? ルールの整合性を考えれば、彼らにも補修を受けさせなければならないことにならないか? 大学入試の要件に高校卒業相当というのがあるはずだが、不適切な高校卒業証書しかもっていないとなると、今の多くの大学生たちは大学在籍の正当性を失ってしまうのではないか?
!2 高校で世界史が必修?
今はそうなったんだなあ。ちょっと感慨がある。私も高校時代に世界史を履修したが、理系クラスでは少数派であった。ちなみに私の受けた理系クラスのカリキュラムでは、世界史と地理IIを二者択一的選択しなければならないことになっていた。日本史は希望しても履修することができなかった。一方で地理Iは一年生の段階で、その後の専攻とは関わりなく全員必修であった。考えてみればずいぶん不均衡なカリキュラムであった。
その世界史であるが、選択はしてみたものの、現役時代は全く持って苦手科目のままだった。定期テストでクラス平均以上の点を取れなかった唯一の科目である。とにかく細かい事項が多すぎるのが気に食わなかったのである。もっとアウトラインをきちんとつかむように勉強するべきだったのだろうが、当時はそこまで気が回らなかった。
それで歴史には長いこと縁がなかったのだが、数年前に「百万年の船
」を読んだのがきっかけとなり、興味が新しくわいてきて、高校生用の参考書など買いなおしたりしている。
!2 「広く浅く」か、「狭く深く」か?
高校以下のカリキュラムはこの両立困難な二つの考え方の間で揺れ動いてきた。まあ「狭く浅く」の「ゆとり教育」は論外としても、この二つの考え方にはそれぞれもっともな部分があり、なかなかこれが絶対という妥協点は見出しにくい。
余丁町散人さんなどは、こうおっしゃっている。
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C1310380191/E20061027190407/index.html
散人の持論だが、初等中等教育は「数学」「国語」「外国語」さえしっかりやればいい。後はいくらでも後から付いてくる。「バランスのとれた」と称する「金太郎あめ」総合教育を強制することで、それに合致しない生徒はイジメを受けることになる。
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C1310380191/E20061027190407/index.html
ですから、自己責任で世界史だけを教える高校があってもいいと思う。世界史は知識の宝庫であり、それまたとてもいい。「金太郎あめ」教育がいけないのです。
上記3教科が最重要であることは同意するが、「あとはいくらでも」のくだりについては必ずしも賛成しない。わたしは、初等教育の間は知識は「つめこみ」が望ましいと思う。それは、幼少の頭がまだ柔らかい間にできるかぎり多様な世界を垣間見させておくことべきだろう。それぞれの分野にそれぞれの分野なりの物の考え方というものがあり、それにそった発想の技術とか、そういうものを学ぶ場所があってしかるべきである。それは専門性が固まってしまってからでは習得が極めて困難なものだ。オトナというものは自分の常識から外れるものはすぐに忘れてしまう性質ができてしまっている。
今のご時勢、高校は中等教育ではなく初等教育の範疇である。小学校と同様の発想でいいと思う。大学が従来の発想における高校に相当する。専門性とかは大学院で磨けばよいのだ。
わたしは「つめこみ」は賛成だが、全生徒が「つめこまれた内容」に順応すべきとは思わない。人には向き不向きがあることは当然だ。向かない生徒には逃げ道があってよい。だが、まずはつめこむべきであろう。
また、いじめの問題はまた話が別である。
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