「言動が論争に与える影響」について。 たしかに「煽り言葉」は論争の方向に何らかの影響は与えるでしょうね。でも、それは必ず悪いことでしょうか?
私自身のスタンスを確認しておくと、まあ私のエントリーをいくつか読んでいただければわかると思いますが、かなり「煽り容認派」であります。 この辺については以前も話題にしました。
改めてまとめてみると……- そもそもブログでは「有益な議論」をしなければならないものなのか? 勿論それはそれでかまわないが、それよりももっと生の感情を表現していくものであっていいのではないか?
- 「議論」は必然ではないが、コミュニケーションはあった方がいい。負のコミュニケーションでもないよりはあった方がいい。
- 言葉がどうあれ、人は所詮じぶんの好みの主張以外は斜め読みで通り過ぎてしまうもの。いわゆる「煽り言葉」でアイキャッチを作るのは悪い戦術ではない。その意味で、毒にも薬にもならず読者がみんなスルーしてしまうような記事よりは煽りエントリーのほうが存在価値があるとも言える。
- 何をもって「煽り」というのかは、結局は一人一人の主観による。穏やかなら良しというのものではない。逆に「慇懃無礼」と取られる可能性もある。悪意を持ってみれば何でも挑発に見える。だったらいっそはじめから「挑発御免」でいったほうが楽。
http://ch.kitaguni.tv/u/2631/Misc/0000092514.html
つまり、煽ることや挑発するならば、それが起こす問題は常に考えておく必要はあります。つまり、『煽るならそこにあるリスクは自分で背負え』ということです。荒れたから相手が悪いだけでは残念ながら解決策にならないわけです。少なくとも、死ぬのは奴らださんは、そんなことは先刻ご承知だし、それなりの覚悟と核心を持ってやっておられると思いますよ。それはどこかのバカが繰り返している嫌がらせのコメント連続投稿への対応を見れば解ります。
「煽り言葉」を使う記事を普通に書く人というのはそういうもんだと思いますけどね。
これは、構造的暴力と言ったものだと考えています。煽る言動はわざわざ論争を不毛な方向に持っていったといってもいいですね。そうですか。今回の二つのエントリーを挟んでの論争は不毛でしたか?
私にはそうは見えないな。件の祭りがどのような場所でどういう規模で開催されるものであるのかの情報が提示され、地元で生活している人たちにどんな影響があるのかという具体的な情報も提供され、経済効果への議論にも発展し、アンチ祭派がなぜアンチなのか具体的な理由がいくつも見えてきましたね。当初は「成功者へのねたみ」などと決め付けていた 胡蝶薫さんにとっても考えを深めるきっかけになったのではないかと思います。
終わりよければ全てよしってことで、めでたしめでたしなのでは?
本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-06-18)
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