議論する上で有効な戦術についての論考、第二弾。 見慣れない単語が出てきたら警戒せよ。
http://ch.kitaguni.tv/u/1181/%bc%d2%b2%f1/0000034058.html に始まるエントリーの応酬を引っ張り出してきてみた。「とんでも理論家」がよくやる戦術を観察できるので。
http://ryo-j.net/archives/000132.html
ここのところです。ここにWebmasterは同意できません。判別式は定義できるんです。ただし、同時代には難しいのですが。 いろんなところである事柄に関するたくさんの事件が発生し、次の瞬間過去の事実となり、また事件が起こる。それら事件が積み上がっていくと、歴史の流れのようなものができてきます。例えて言えば、自由主義と社会主義の争い。もちろん、現時点では自由主義が圧倒的に優勢であることは疑いないわけで、「歴史の流れ」は「自由主義陣営とともにあった」と断定してよいでしょう。上で言っている「ここのところ」とは、以下の部分を指し示している。
http://ch.kitaguni.tv/u/1181/%bc%d2%b2%f1/0000034058.html
この人たちは「偏向」「捏造」などのキーワードを多用することで自分たちだけが「スタンダード」なのだと位置付けようと必死なわけだが、そもそも偏向であるかないかを弁別する判別式のようなものは定義できないわけで、結局は主観の話にすぎないのだ。ryo-j氏は「歴史の流れ」なる新用語を持ち出して、kojidoiが「説明できていない」と指摘している部分を「説明できた」と主張している。もちろん、そんなことは出来ていない。彼は言葉遊びをしているに過ぎない。第三者が検証可能な「流れ」の定義は何処にも示されていないし、それゆえ当然ながら、朝日新聞が「流れに反している」という主張にも根拠を示すことが出来ていない。 実際、この主張は、 barbaroid氏の指摘 などを見れば一発で粉砕されてしまうレベルにしかない。
にもかかわらず、うまく用語を選ぶと、それを織り込んだ主張はなんとなく客観的・理論的に見えてしまうものだ。
「と学会」的なネタ(たとえば、進化論や相対性理論の誤りを発見したと主張する記事)には、しばしば多くの怪しげな新造用語が含まれる。付け加えておくが、たとえ辞書に載っている単語でも、その辞書に定義されているのとは異質の意味で使われていればそれは「新造用語」である。なにしろ彼らときたら、同じ記事の中ですら新造用語に複数の異質の定義を与えることも厭わない。ストーリーが都合よく完結するように言葉の意味の方を摩り替えてしまうのだから無敵だ。
これらの例はあまりにも分かりやすすぎて「誰もこんなのひっかからねえよ」と思えるかもしれないが、世の中には同じような戦術をもっと巧妙に使う論客が沢山いることは覚えておかねばならない。
このように新造用語には論理の瑕疵をうまくごまかせるという旨みがある。だがそれだけでなく、古い器にあてがうことでその器を新しく見せられるというメリットもある。この性質は何もネット議論だけではなくいろんなところで応用されている。
たとえば「ブログ」なんて用語もその一例と解釈することが可能だ。web日記と何が本質的に違うんだ? 確かにいくつか真新しい機能が盛り込まれているとはいえ、しょせん一太郎とMSWORDぐらいの違いしかあるまい。にもかかわらず、少なからぬ人がブログを新しいと感じているようで、ブログの登場でやっと一般人が情報発信するツールが現れたなどと、したり顔で語る人が現れる。そんなことは10年前から可能だったのに。
おなじことは、学術論文の世界にも見られる。私の専門領域である生物学、なかでも遺伝情報を扱う分野では毎年真新しい単語が発明され、それに飾られた論文が雑誌を賑わせる。しかし、使われている手法も発想も私が学部学生のころから知られているものの焼き直しに過ぎないことも珍しくない。それでもこういう「ハッタリ」を成功させた者こそが勝組であり、研究予算をうまく分捕ってこれるのが現実なのである(アメリカ人はこれがとても上手)。
本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2004-09-21)
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