ひとつの伝記を紹介したい。
ウルトラマンの名前を聞いたことのない日本人はほとんどいないだろう。しかし、特撮モノに興味のない人は、ただの子供だまし番組との認識しか持っていないかもしれない。だが、少なくともウルトラマン・ウルトラセブンの2作品は、鋭い文明批評が織り込まれたメッセージ性の高い作品も多く、大人の鑑賞にも十分堪えうるものだ。
たとえばウルトラセブンに「ノンマルトの使者」というエピソードがある。ここでは、地球防衛軍の潜水艇が敵の海底都市に有無をいわさずミサイルの雨を降らせ、壊滅させる。「地球はわれわれのものだ。これで平和になる」と高らかに笑う隊長。だが、実はその「侵略者」こそが人類よりも古くから地球に住む先住民族であった可能性が提示されるのだ。ここで「正義の使者」と「侵略者」の立場が逆転させられている。果たして正義は誰の下にあるのか? パレスチナ問題やイラク問題に「答え」を見出せない我々に40年のときを超えて提起される重い問題。
この脚本を書いたのが、金城哲夫である。ウルトラシリーズが製作され始めた最初期に円谷プロにいて脚本家のリーダーとして活躍した。 掲出の書籍 は、その金城哲夫の軌跡を、彼の大学の先輩に当たる著者がまとめたものである。
金城は沖縄出身で、昭和13年の生まれ。すなわち沖縄戦で戦火の下を逃げ回る経験をした人である。しかし中学にあがるときに、当時は外地だった東京にでて玉川学園を出、円谷英二に出会ってウルトラシリーズの脚本を書くことになった。そして、ウルトラセブンが放映されたのはちょうどベトナム戦争でのアメリカの非道ぶりが明らかになってきた時期と重なる。「正義とは何だ」という重いテーマを扱う脚本が生み出されたのは偶然ではなかった。
さて、金城氏は弱冠二十代半ばで円谷プロの文芸部トップに抜擢されたくらいであるから、とても優秀で才気煥発な人だった。ところが、「ウルトラマン昇天」によれば、彼はひとつのジレンマを抱え込んでいて、それに一生悩まされた。ついにそれを最後まで克服できなかったようなのだ。
そのジレンマとは、彼のアイデンティティの拠り所がないことだった。沖縄出身にもかかわらず、彼は生粋の沖縄言葉を操ることができなかった。だが、日本本土では彼は「外国人」。いったい自分は何人なのか? と、うつうつと悩んでいたようなのだ。
ウルトラセブンが終わってしばらくして、金城は円谷プロをやめ、沖縄に戻り、ラジオの仕事などをしながら沖縄芝居の脚本を書き続ける。だが、書いても書いても「何かが違う」。言葉のギャップだけではなく、なにか沖縄人ならではの機微のようなものを彼は会得することができなかった。やがて彼は沖縄海洋博覧会の開会式・閉会式をとりしきる大役をまかせられることになるが、この博覧会に対しては地元民は必ずしも好意をもっていなかったらしい。酒を手に地元の漁民の家々などを回って博覧会への協力を要請することも金城の仕事となったが、これによって「沖縄人としての機微」を身につけられていない自分と地元民とのギャップをさらに思い知らされることになった。
心の隙間を埋めようと酒に溺れ、ついに彼はアル中に陥る。心配した家族は、アル中の治療を専門に行う病院への入院をアレンジした。だが、あと数日で実家を離れて入院というある日、金城は自宅の外付け階段から足を踏み外し、二階から転落。コンクリートのたたきに頭をぶつけ、死亡した。享年37歳。
いろいろなことを考えさせられる。金城哲夫は天才であり、また高い志を持った人でもあった。だからこその苦しみがあったのだろうが、それにしてもあまりに苦悩に彩られすぎた寂しすぎる死に様ではないか。違う進路を選択していれば、いまごろは手塚治虫や宮崎駿にも匹敵する日本が誇るクリエイターとして名前を連ねていたかもしれない。本当に惜しい。
本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2005-02-12)
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