Jun Rajini さんの悲愴なエントリーに触発されて左利き論を書いてみる。
左利きの矯正(この言葉はすこぶる気に入らないがSEO対策として敢えて使用する)というのは今でもまだ幅を利かせているのだろうか。 昔よりは左手で箸やボールペンを操っている人を見る機会が増えているように思うので、矯正絶滅は時間の問題であるとは思うのだが。
気になってきたので検索してみると、まず次のページが見つかった。
2年前の情報だが、まだ「矯正」をすすめる時代遅れな人は皆無ではないのだな。もうイイカゲン絶滅して欲しいと思う。さらにレフティやすお氏による 「利き手(左利き)の矯正」という言葉の使用について は、昔とは矯正の理由付けが変化してきていることを指摘している。つまり、左利きを「よくない」ものだとはしないが、「不便」だから直してやろうという方向に向かっているらしい。結論を言おう。その発想もまた大いに間違っている。
確かに左利きで不便なことはなくはない。たとえば自動改札機が左利きに扱いづらい構造なのは有名。他に軽量カップとか柄付きの醤油差しとかカッターナイフとかには左手では扱いづらいタイプの製品がある(どうして不便なのか右利きの人は想像してみよう)。
だが、本来、道具とは人間の便利に合わせて設計すべきなのであり、道具に合わせて人間の生理の方を曲げようというのは明らかに本末転倒だろう。計量カップならば柄の両側に目盛りを振っておけば済むのであり、カッターナイフや醤油差しは左利き仕様の製品を作ればよい(実際に存在する)。
かつては腕時計なども左利きには使いづらい代物であった。右手に嵌めると左手で竜頭を巻くのは至難の業だったからだ。周知のとおり今の腕時計はボタン操作が主流となり、この問題は完全に消滅した。
ましてや筆記用具など、わざわざ使いにくい右手で操る必要がどこにあるというのだ。左手で使わせろ、左手で! 殴りまくって「矯正」をかけるなどとは発想が100年遅れている。犯罪的に遅れている。もし自分の子供がこんなバカ教師に迫害されるようなことがあれば、私は子供を守るために全力で戦いを挑むであろう。
ところで、どうも一部の人は左利きの脳生理を度し難く勘違いしているらしく、鉛筆を右手で使わせれば左利きは解消されて箸でもなんでも右手で使うようになると思っているらしい。そんなことはありえないのである。左利きの脳は依然として左利きの脳でありつづけるのだ。「矯正」の結果として右手で鉛筆を使うようになった人が消しゴムをどちらの手で使うかチェックしてみれば良い。
「でも両手が使えるようになっていればいろいろな作業が能率的に出来て便利でしょ?」
そうですか。そういって「矯正」を支持する貴方には次の質問を投げかけたい。
「あなたは右利きの子供に同じ対処を何故しないのですか? 両手が使えれば便利なのは、 右利きの人間にとってだって同じ でしょうが!」
ここまで問い掛ければ、この理由も「本音を誤魔化すための後付けの論理」であることが理解できよう。本音とは、自分とは異質の者にそばにいて欲しくないという保守的な自己防衛欲求。でも、これを正直に言ってしまうとあまりに差別的で体裁が悪いから、「両手使いの利便」を無理やり持ち出してきたというわけ。
矯正なんてやめなさい。どこをどうとっても間違っており、それを支持する理由はどこにもない。
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【追記】 ちょっとググって左利きな北国住人を探してみた。 かく申す私も左利きである。本エントリーの初出:チャンネル北国TV (2005-05-12)
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