Winnyの作者である金子被告が有罪判決を受けた。これが有罪なら包丁職人も殺人ほう助罪か、というたとえ話(「包丁理論」というらしい)はこの判決の奇天烈さを適切に説明していると思うのだが、その筋の人に言わせれば的外れらしい。
Dan Kogaiさんのブログのエントリーのコメント欄でそのような議論が盛り上がっているのだが、その人々によれば、包丁理論は説明の必要さえなく明白に的外れであって金子氏の有罪は当然だということになるらしい。ソフトを配布することによって違法行為(著作権侵害)を容易ならしめたのだから有罪は明らかだということらしいが、まったく理解しがたい主張だ。
一説には、彼が問題のソフトによって著作権制度が崩壊することを願うような言動を展開していたのが有罪の根拠だという。だが、これは思想の自由の枠内ではないのか。ルールを遵守することは市民に等しく課せられた義務だが、同時に、こんなルールなくなってしまえばいいと願ったりそう表明する自由も等しく保障されている。これを有罪の判断材料にするのはあきらかに表現の自由を侵害している。これこそ重大な憲法違反ではないか。
そもそも報道内容を見る限り、判決も「金子被告が著作権侵害がネット上に蔓延(まんえん)すること自体を積極的に企図したとまでは認められない」としている。このことと、幇助の罪が成立するとする最終判断の間との間には論理的な矛盾がある。
疑わしきは罰せずという原則が確か存在したと思うが私の記憶違いだろうか。かかるあいまいな判断基準で有罪判決など安易にされてはたまったものではない。包丁理論はこの辺の恣意性をわかりやすく指摘していると思う。そうでないと主張する人、特に警察・検察関係者には包丁とwinnyの間にいかなる本質的な違いがあるのかをきっちりと説明する責任があるだろう。とにかく被告は控訴するということだから、上級審で無罪を勝ち取れることを祈っている。
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