大学院を出て博士号をとったものの正職員・正社員への採用の当てなく漂流している若手研究者、いわゆる「ポスドク」が増大している。かくいう筆者もその一人。
昔から、日本において博士の企業への就職は至難の技であると言われていた。負け組予備軍が徒に増えたということ以外、21世紀の今も何も変わっていない。
日経BP Biotechnology Japanの連載より:
7月号の連載でも述べているが、最近のポスドクは「上位(優秀)が2割、下位層が2割、中間層が6割=2・6・2の法則」というのがよくいわれているようだ。フューチャーラボラトリの橋本昌隆社長によれば、上位層のポスドクは研究能力やマネージメント能力を持った人間で、自ら積極的に活動できる。中間層は、研究能力はあるがマネージメント能力には少々欠ける。下位層は研究能力自体にそもそも難がある人間で、それ以外も研究者として資質がない人間という位置付け。この下位層のポスドクが就職活動で企業の面接を受けることにより、"ポスドク"という存在の評価・評判を下げている要因になっていると分析している。博士号を持ち、一度は研究職に就いていながら企業への転職に成功したキャリアチェンジ経験者と、ポスドクや博士課程の院生が対談する連載企画を7月号までに12回行っており、筆者もたびたび対談の場に同席していたのだが、多くの若手研究者が驚くほど自分たちを取り巻く厳しい環境を理解していなかった。特に就職活動に当たっての情報収集という面でいえば、「企業の求人募集を見るなど、ネットブラウズくらいしか思いつかない」と断言するような人に多く遭遇した。確かにこれでは、企業が"欲しいと思う"人材と対面できる率は、非常に低いと思わざるを得ない。
ポスドクが「厳しい環境を理解」していないのは当たり前である。
企業の中に居ないのに、企業の論理など理解できるわけあるか。それをポスドクの至らなさであるかのように言うのは、はっきり言って企業の身勝手である。
企業の人は何かと「即戦力」とかに拘るようだが、同時に「新卒」と同様の純粋さというか柔軟さというかも同時に要求しようとしているようだ。虫が良すぎる。あなた方が欲しいのは専用工具なのか汎用工具なのか? まずはそれをはっきり提示すべきだ。
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しかし全ては、圧倒的に供給過多な買い手市場であることからくる矛盾である。買い手市場なのだから、買い手がいいことに言いたい放題なのは当然の経済原理であるともいえる。
このポスドク問題に関してもっとも強く批判されるべきなのはやはり大学院当局であろう。単純な算数でこの事態は10年前から容易に予想されたことだった。しかしそれからも大学院は新設され続け、甘い言葉で大学院生を募集し続けた。
そこでどんな教育をしたのか? いわゆるアカポジ、すなわち大学の研究室に常勤の教官として残れるのであれば役に立つであろう知識や技術は確かに教え込んだのだろう。だが、そうなれないことが確実な残りの大多数の院生たちに、教官たちは結局のところ何を与えてきたのか? 馬鹿高い授業料に見合うだけのものを与えたといえるのか? 全部「大学院生は既に子供ではないのだから」などともっともらしい言い訳を錦の御旗に、都合の悪いこと、面倒なことはサポートせずに「大人の自己責任」ということにして逃げてきたのではないか?
結局のところ大学にも企業の経済原理がいやおうなく押し付けられていくことになりそうである。そうするとアカポジに残れた人も今後はどうなるか分からない。ひとつだけ確かなことは、いわゆる研究にだけ拘っていられる幸せな研究者は今後日本から消えてなくなるだろうということだ。
企業は企業の論理を絶対的価値観として押し付けようとし、ポスドク・大学人のほうはあいかわらず「この道一筋XX年」的キャリアのことしか考えていない。そして、それぞれの世界の既得権益者はとりあえず安泰であるように世の中は作られている。その既得権益を安泰に保つために、帯に短くたすきに長く矛盾に満ちた教育・就職サポート・業績評価ばかりが横行している。中堅以下の圧倒的多数の人間は割を食っているわけである。今後どうなるのだろうか。
どんなことでもあっという間に会得してしまいそれぞれの筋のカリスマとして振舞えてしまう天才が居るものだが(たとえば小飼弾氏のような)、もはやそんな一握りの生まれながらのエリートでなければ生きる道はないのだろうか? まったく考えれば考えるほど憂鬱になっていくばかりだ。
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