川崎市の109シネマズで「沈まぬ太陽」を鑑賞。
10分間の休憩を挟んで3時間。内容も内容だし、鑑賞に気力・体力がいる映画だ。
しつこいぐらいにこの作品がフィクションであることをパンフレットは念押ししているが、モデルとなった会社や事件が何なのかはだれの目にも明らかであろう。映画は、冒頭から「123便」の墜落シーンである。乗客の一人が遺書を書くシーンがあるが、その遺書の文面は、モデルとなった事件で被害者の一人が走り書きした実在の遺書のそれと一言一句同じものである。このシーンはやはり大変な重さだ。映画館の場内は飲食物持ち込み自由だが、揺れに揺れる機内で酸素マスクをつけて席についている乗客たちの場面になると、物を食べたり飲んだりという物音が一切やんだ。
物語は、最初は同じ立場に身を置きながら対照的な人生を歩むことになる恩地と行天という二人の男の軌跡を描写する。対照的ではあるが、二人の生き様はどっぷり会社に漬かった人生であるという点では同じようであり、それぞれ違う意味でそれぞれとても「理不尽」なものに見える。いったい恩地の考える意地とは何だろう。行天の目指した「未来」とは何だったのだろう。
パンフレットの中で渡辺謙が「この時代の人は、もっと深いところで会社や自分の仕事を考えていた」という言い方をしていたのが新鮮であった。今とは違う「過去」として1985年が捉えられている。そういうものなのだと今更ながら実感した。確かに四半世紀前の話であり、この事故以降に生まれた人たちがすでに社会に出ているのだから過去には違いない。ただ、当時の人々と今の人々との間には何か人生観に違いがあるのだというのがあるのだとある種の共通認識として具体的に示されたような気がして、そこが新鮮だったのだ。
この事故が2009年に勃発していたとしたら、やはり恩地や行天のような人々が生まれたのだろうか。報道によれば実在のナショナルフラッグカンパニーもひどい有様のようだが、それでもやっぱり昔ながらの価値観のもとに「保守」されていくのだろうか。
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